「私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために生きているわけではない。あなたも私の期待に応えるために生きているわけではない。
私は私。あなたはあなた。
もし偶然私たちの心が触れ合うならそれは素敵なことだ。だが触れ合わなくても仕方ない。」
上に書いた詩はゲシュタルトの祈りと言って、ゲシュタルト療法の創始者である精神科医のパールズさんが作った詩。
「君は君で僕は僕 そんな当たり前のこと
なんでこんなにも簡単に僕ら見失ってしまえるんだろう。」
こちらはMr.childrenの「掌」という曲の歌詞の一部分。
どちらもとても僕の心に響く。私は私、あなたはあなた。この実践が本当に難しい。ゲシュタルトの祈りは数年前から何回も何回も唱えてきた。言葉に出していくとそのうち自分の意識の奥が変わっていくかなと思って今もずっと暗誦している。
今日も職場で自分の意見を主張するタイミングがいくつもあったけれども毎回難儀した。言葉の最後がごにょごにょと小声になったり。「相手が自分と違う意見で僕の意見が否定されたらどうしよう」とか浮かんで不安になった。
今日の午前中に後輩と一緒に作業していて、後輩が作業の途中でまだやってなかった作業を思い出して何も言わないでそっちにとっかかった。彼は集中力がないのかしばしばこういうことが起こる。
一緒にしてた作業を急に離れられるのはビックリするので僕は彼に注意しようと思った。だがタイミングを完全に逸してしまった。それでも何とか頑張って注意した。「○○君、次から違う作業をするときはこっちが一段落してから行ってくれる?」と言うと彼は「一段落っていつですか?それがわからなくて…」と言った。確かに僕にとっては何となくこのタイミングというのはあったけど彼にとってははっきり言われないとそれが難しいのかもしれない。僕は「たとえば~の時とか」と言うと彼は納得してくれた。
だがその場面が終わっても僕の心はモヤモヤしていた。「もっとああ言いたかったのにうまく言えなかった。」いつもの反芻思考だ。伝わったんだからそれでいいじゃないか。目的は上手に言うことではなくて相手に伝えることだろう。
それと僕が注意したその後輩が僕のことどう思ったのか気になった。もう一人同じブースで作業している人が僕の注意を聞いていたのでその人もどう感じたのか気になった。「嫌われていないだろうか。」これは瞬間的に浮かんでしまう。しゃあないか。
午後のこと。建物内に他の会社も共用の作業スペースがあるのだが、そこでちょっとイラっとすることがあった。僕はシンクで作業しようとしていて、隣のシンクの下にある午前中にハイターで布をつけ置きしたバケツを取ろうとした。隣のシンクでは別の会社の管理者と呼ばれる障碍者の上司にあたる人が作業していたので「足元失礼します。」と声を掛けた。だが何の反応も返ってこなかった。「まあ、いっか。」と自分のシンクで作業していたら今度はその管理者が僕が作業しているシンクの下から何か取ろうとした。それを取るときに僕の足にぶつかっているのに特に何の言葉もない。「なんだこいつ。」腹が立った。
しばらく僕は「こういってやればよかった。」「足にぶつかったとき足をどけたけど、意地悪してどけなけりゃよかった。」などその管理者にやり返したい気持ちになった。だけど、そんなレベルの低い人にイライラして自分の時間を費やすのももったいない気がした。「あほやから仕方ないか。」「うちの管理者があの人でなくて良かった。」「今に集中、今に集中。」「どうでもいい、どうでもいい。」自分の引き出しから今に集中するための方法や言葉を引き出して何とか対処した。まだまだ未熟ですね。

今日の僕です。
スリーグッドシングス
1.後輩に注意できた。
2.整骨院の先生にブログを褒められた。
3.筋トレできた。
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